センター刊行の報告書 61-80集Report

                                   
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報告書名 所在地 主な内容 全国遺跡報告総覧
61 池之谷遺跡・中山遺跡・高橋遺跡
(いけのやいせき・なかやまいせき・たかはしいせき)
菊川市 丘陵上に位置する池之谷遺跡では、方形周溝墓か土坑墓が存在した可能性をうかがえる遺物、中山遺跡では奈良時代から平安時代の集落面、高橋遺跡では、弥生時代から古墳時代の土器や木製品が多量に含まれた流路などを確認した。 閲覧へ
62 唐沢古墳群
(からさわこふんぐん)
浜松市 奥浜名湖地域に所在する円墳1基の報告書。2重の墳丘内石列及び外護列石を確認した。石室は胴張の無袖式石室で側壁と天井石の一部が残存していた。 閲覧へ
63 西向遺跡
(にしむかいいせき)
袋井市・磐田市 静岡県西部を流れる太田川沿いの低地に広がる遺跡である。弥生時代中期後半の方形周溝墓、古墳時代前期~中期初頭と後期の集落、奈良時代の掘建柱建物群、平安時代後期の集落が検出されている。中でも古墳時代前期~中期初頭の井戸の廃棄に伴う祭祀行為、何らかの公的な倉庫跡と目される奈良時代の掘建柱建物群が注目される。 閲覧へ
64 上土遺跡II
(あげつちいせき)
静岡市 静岡清水平野には、8世紀後半から9世紀初頭の条里地割が広がっていたとされるが、今回の調査でも、1辺約107mの方形区画をもつ大畦畔が確認された。畦畔は基本的には、粘土を盛り上げた単純な構造であったが、中には強度を保つために、内部に再利用された建築部材や土木材が埋め込まれているものもあった。条里地割の施工が現存する麻機沼付近まで広がっていたことが確認できた。 閲覧へ
65 国分寺・国府台遺跡
(こくぶんじ・こうのだいいせき)
磐田市 特別史跡遠江国分寺跡とその北側にある国分尼寺跡の間に当たる場所の一部を発掘調査した。今回の調査で、奈良時代の溝と中世以降の可能性がある掘立柱建物跡の柱穴を検出したことにより、遠江国分寺跡と国分尼寺跡の間の遺跡の状況の一端を示すことができた。 閲覧へ
66 堀田城跡
(ほったじょうあと)
菊川市 堀田城跡は、菊川市西方の丘陵に立地する。菊川地域と掛川地域を見通すことができる丘陵の北東端に位置するとともに城の北側から東側にかけて西方川が流れており、天然の要害となっている。今回の発掘調査では、曲輪2箇所と切岸を検出した。 閲覧へ
67 赤塚遺跡
(あかつかいせき)
焼津市 赤塚遺跡は、大井川扇状地東端の微高地上に立地する遺跡である。従来、古墳時代後期の集落跡とされてきたが、今回の調査では、溝、土坑、小穴とともに、土師器や須恵器、灰釉陶器が出土したことから、従来知られていなかった、奈良時代から平安時代の集落も存在していることが明らかとなった。 閲覧へ
68 尾羽廃寺跡
(おばねはいじあと)
静岡市 尾羽廃寺跡は静岡市清水区尾羽に所在する古代の寺院跡である。これまでの発掘調査で、金堂と講堂が確認され、塔心礎や石造露盤の出土が報告されている。今回の調査では、金堂の東南に当たる地点で、基壇を伴う礎石建物跡が検出された。畿内を除く地域で古代に礎石建物があるのは寺院や官衙に限られることや、建物付近で炭化米がまとまって出土したことから、この建物は駿河国廬原郡衙の正倉である可能性が考えられる。出土遺物や基壇の周辺で確認された火山灰及び炭化米の年代測定の結果から、この礎石建物は9世紀初頭に建てられ、10世紀代に焼失したと考えられる。礎石建物跡の北側では、東西約130mにわたって直線的に延びる溝が検出され、土器や瓦の他、木簡が4点出土した。 閲覧へ
69 船津1古墳群
(ふなついちこふんぐん)
富士市 船津1古墳群は、富士市の東端、JR東田子の浦駅の北約3.5㎞の愛鷹山南麓に所在する。今回調査対象とした古墳は、同古墳群中で最も高所に位置している。真北からわずかに西側に主軸を振った幅1.3m、長さ4.1mの横穴式石室の基底部と周溝の可能性がある溝状の落ち込みを確認した。石室床面は直径10㎝程度の扁平な円礫を敷き詰めて床面としていた。床面から、玉類(勾玉、切子玉、ガラス小玉)、金属器(鉄鏃等)が見つかった他、石室外からは、土器片(須恵器)が発見された。6世紀末から7世紀代に築造された古墳と考えられる。 閲覧へ
70 西浦足保林石丁場遺跡
久料仲洞丁場遺跡
(にしうらあしぼはやしいしちょうばいせき くりょうなかほらちょうばいせき)
沼津市 伊豆半島西海岸の付け根に当たる、駿河湾最東部の南岸には、江戸城の石垣の石材供給の場として、複数の石丁場が設置されており、西浦足保林石丁場遺跡、久料仲洞丁場遺跡もそれらに属する。西浦足保林石丁場遺跡では、調査区内から27個の矢穴石が、久料仲洞丁場遺跡からは、31個の矢穴石が検出された。両石丁場には矢穴石の規模や矢穴(痕)の大きさに相違がみられるが、反面、両石丁場には、阿波蜂須賀家の家紋に由来する「卍」が刻まれた刻印石が残されており、蜂須賀家が運営に関わった石丁場と推測した。 閲覧へ
71 上原遺跡
(うえはらいせき)
沼津市 上原遺跡は、JR東田子の浦駅と原駅のほぼ中間の千本砂礫洲上に立地している。弥生時代から中世までの遺構・遺物を確認しているが、中心となるのは弥生時代中期中葉であり、27基の方形周溝墓が密集して検出された。出土した土器の中にはほぼ完形の東遠江地方の壺があり、当該地域との交流があったことを窺わせる。古墳時代後期には円墳とともに、竪穴住居も5軒検出されており、墓域のみならず集落域としても利用され始めたことが理解された。 閲覧へ
72 西浦立保長津崎石丁場遺跡
(にしうらたちぼながつさきいしちょうばいせき)
沼津市 西浦立保長津崎石丁場遺跡は沼津市西浦立保に所在する近世の石丁場跡である。今回の調査で矢穴石を3点確認した。そのうち2点は海岸にある円礫状の大石に矢穴を穿ったもので、分割されることなく残されていた。残る1点は分割面のある平坦な大石で、海岸にある石を利用したのか、別の場所から運ばれたものかは不明である。また、この場所で分割されたのかどうかも不明である。3点の矢穴石の矢穴は、周辺の石丁場の矢穴に比べると、例外と言える程に小さく、しかも大きさにまとまりがあることから、計画的に小さな矢穴が開けられたと考えられる。 閲覧へ
73 東大平遺跡
(ひがしおおひらいせき)
沼津市 東大平遺跡は、愛鷹山南麓の標高82 mの緩斜面に立地する。今回の調査では、弥生時代~近世の溝、土坑を検出した。特筆される遺構は、幅2.91 m、深さ0.72 m、検出延長42.21 mの尾根筋に直交して掘られた断面V字形を呈する溝(SD 1)である。共伴遺物が少ないため、時期決定の根拠に乏しいが、類似した溝は、愛鷹山南麓の弥生集落の区画溝にあり、同時期の所産である可能性が高い。また、この溝に近接して検出された落ち込み(SX 8)からは弥生土器が集中して出土した。同遺構内からは焼土も確認されていることから、竪穴住居の可能性があるものの確定には至らなかった。以上のことから、本遺跡は、愛鷹山南麓に展開する弥生時代の集落群の南端部に該当する可能性がある。 閲覧へ
74 上原遺跡
(うえのはらいせき)
裾野市 上原遺跡は、裾野市深良に立地する平安時代の集落跡である。今回の調査で竪穴住居1軒、柱穴7基、土坑3基、溝2基、その他遺構2基を検出した。出土遺物は土器、陶器で、多くが8世紀後葉~9世紀代のものであることから、遺構も同時期のものと考えられる。遺物は、竪穴住居以外では大半が包含層からの出土である。今回の調査でも「十」と書かれた墨書土器が20 点出土しており、昭和56 年の調査成果をさらに補強する成果となった。平安期における1文字墨書は当地域では一般的だが、発見される墨書のほぼ全てが同一の文字である事例はみられない。墨書土器には型式差、時期差もあるため、存在しない地名や、集団、あるいは同種文字を墨書する習慣などを示している可能性がある。 閲覧へ
75 吉祥寺廃寺
(きっしょうじはいじ)
伊豆の国市 吉祥寺廃寺は伊豆の国市南江間に所在する。元々、狩野川中流左岸の丘陵裾部・自然堤防上に立地する、中近世に存在した臨済宗寺院の推定地であるが、今回の調査で新たに縄文時代、弥生時代の遺物の散布が認められ、自然堤防上に展開する古墳時代および平安時代の集落がこの地まで延びていることが確認された。また、寺院に前後する遺構、寺院の施設と考えられる遺構も検出された。 閲覧へ
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